昭和50年01月08日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言う事に背かぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
私今朝御神願に、利き酒を致しますですよね。お酒を良し悪しを見る。利き酒といいますね。利き酒を致します時に、お湯飲みのコップなんかは使いません。磁器で、ね。所謂有田焼きの様な磁器で、中がこう蛇の目になっておる器を使います。利き酒用のそれに、利き酒用のちょくに、酒がこう入っておる所を頂いた。どう言う事だろうかと、私は思わせて頂いたんですけれども、どうしてあの利きじょくですね。利き酒のそのちょくに、中にこうあれで見たが、一番良く解るかというと。
第一色が一番良く解る出巣。お酒の色が陶器だから解らないようですけれども、中からこう上から覗くとですね。その酒の色がすっきり解るんです中にこう蛇の目が入ってますからね。どう言う事だろうかと思ったんですけども蛇の目と言うのですからね。私はだからこりゃ巡りの目と言う風に、まっ頂いたんです。お酒は勿論有難き勿体なき、恐れ多きとこういう。自分が有難いと思うておる。有難いと言う事を愈々解らせて頂くのは、廻りの自覚に立たなければいけないと言う様な風に感じたんです。ね。
言うならばもう本当に、私の様な者がと言う、謙虚なものです。自分の巡りの深さを、自分の巡りが解らない人はね。おかげを頂いても、おかげを頂いても、それを当たり前の様に思うたり、有難いと思うのが、非常に浅いと思います。私は信心はもう深く広く解らなければいけないと思う。そういう意味でです、例えば、教祖様の場合なんかは、もう人からは、生き神様と呼ばれなさるほどしの体得、御神徳を受けられ。天地の親神様からですら、今日の御理解で頂きますと。
金光大神があって神が世に出たのであると。神からも氏子からも双方からの恩人は、此方金光大神であると仰せられる様に。天地金乃神様からも大恩人と仰ぎなさる程しのものを、頂きながらもです、ね。所謂何にも解らぬ無学の百姓という自覚でおありになったと言う事です。私共もそう思います教祖様が本当に無学の百姓と仰せられるが、なら私大坪総一郎自身も本当に無学の商人だという自覚に何時も立っております。私は何にも出来ません。もう昔からまぁ商売人を目指しておりましたから、ね。
所謂商人で立とうというその言わば根性で小さい時から、そう言うま精進努力をしてまいりました。だから商売人と言う物はね。言うならばあの資本がなからなければ商売が出来んなんていう人は本当の商人じゃないです。もう資本は無くても商いは出来るんです。それから勿論資本段々作って行くおかげを頂かねばなりませんけどもね。此処に幾らあったら、どんな商売はできるけれどもなんて無いなら無いなりにです。
そこから私は商いの道と言うのは付いて来るんだという風に、是は私自身がまぁ感じさせて頂いておりました。もう言うならば身体が元手であります。そら成程終戦そして引き揚げて帰ってまいりましてからの、私の商売は本当に、あの無一物の中からのおかげで御座いましたもんね。ですからあの所謂無一物の自分と言う自覚ですか、添えが何時も私の信心の根底を成しとる。
どんなにおかげを頂いても、本当に自分の様な物がと言う所にあるます所に、誰よりも言うならば深く、有難いと言う物が頂けておる様な感じが致します。此れ程信心するのにと言った様な心は、だから勿論、さらさら起こりも致しません。どう言う例えば、難儀な問題があってもです。もうそれはもう当然の事。痛い思いをするというても、どうしてじゃなくてもう当然の事。信心が段々深められて行くと言う事は、ね。愈々自分自身の正体と言う物を解る事。
高橋正雄先生じゃないですけれども、所謂「見ること見ること、自分を見ること」であります。そこから何を見るかというと、自分の巡りの深さを感じるのです。巡りの深さが解るのです。ね。そういう言うならば屑の子の自覚です。我屑の子であると言う、自覚に立って、頂いておるおかげを見ますから、ね。誰よりも深い有難さと言う物が生まれて来る訳であります。
段々おかげを頂いてまいりますと、まぁ例えば商売でいうならば資本も出来た。借金も無くなった。まぁ悠々とお商売が出来る様になる。そすと信心の方が段々疎かに成って来る。ま、例えば病気でもいいです。自分は身体が弱いという時には、熱心な信心は出来ますけれども、健康になってまいりますと、もう忘れちゃおりませんという程度になって来る。結局自分と言う物が、見極めが出来てないからだろうと思うです。
信心が段々解ると云う事は自分の見極めが、段々出来て来る事ですから、おかげは頂けば頂く程勿体ないと言う事になって来るのです。昨夜は遅うまで、今日はあの青年会の、初の青年会で色々な催しをされるそうです。なかに皆さんから沢山頂いております、福引があります。沢山な品物が集まっております。その中にあのお酒があるんです。特級酒の御酒です。それに教祖様は、この一生が修行じゃと仰っておられる言葉です。「信心は一生が修行じゃ」と。一生が修行と云う事はどう言う事かというと。
一生が苦労だと言う意味ではないのです。一生が修行だと云う事は一生掛りでです、有難き勿体なき恐れ多きを追求すると言う事なんです。信心をしておれば一年一年有難うなって来ると仰る。信心をしとれば一年一年有難うなって来ると言う事。それはおかげを受けるから、有難いというだけではなくてです。おかげを受けておる事実。おかげの世界と言う物が、一年一年深く広く解って行くと言う事なんです。
同んなじ例えば生活をしておりましても、甲の人はね。それを当然の様に思っておる乙の人は、それを大変なおかげと思うておる。同んなじ事です形の上においては。ね。例えば千円なら千円という財産を持っておると致しましょう、どっちも。ね。甲の人は、ね。自分が働いたから、当然の事だとこう思っておる。乙の人はです、自分の様な物がと言う自覚にたっておりますから、その千円の財産と言う物は、もう大変な、尊い有難い勿体ない物として頂いております。
信心は私は愈々ね。一生が修行であると言う事は、愈々自分と言う物が解って行くと言う事です。そしてそこからおかげが、おかげの世界が変わって来ると言うのは、この方の道は、ね。喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんという、おかげが伴うて来るのです。ね。此処の世界はまた、それこそ夢にも思わなかった世界であります。ね。昨日テレビで医学博士であると同時に、宗教学者でもあると言う方と、片一方の人は途中からでしたから、解りませんけれども。
神様、神様と言いよりなさるから、何ごつじゃろかと思うて見たら、あの何か神様を拝む方らしいです。そしてその方お家で、色んな奇跡が、次々と起こるらしいんです。おかげを頂く訳です。それでそれはね宗教と言う物は、ね。心を正すものであっておかげを頂くという宗教は、宗教じゃないと片一方は決め付けとる訳です。そすと片一方の人は、そのおかげを事実その受け渡しておるのです。そしたらそれはね。おかげと思うてるだけで、実際はそうじゃないんだと。
例えば病気なら病気でもです。奇跡的に助かった。それは医者がね、見違えておるのだと。ね。例えば貴方は何々に癌だとこう言う。それでその本人はそのまま、癌と思い込んでしまう訳である。そして神仏を、神様仏様と言う事になって来て、ね。言わばその取次ぎ者というか、その宗教者がですね。なんかヒントを心にぽっと与える。大体が病気ではないのですから、それがあの良くなるんだと。だからそれは病気でないものを、病気と思うておるからと言う風に、その説明しておるんです。
そういう場合もやっぱあるかも知れませんね事実。けども私はそれを聞きながらその、思うたんです。それは昨日一昨日でしたけれども、佐世保から電話がかかって参りました。もう、それこそ泣きながらの電話だったそうです。ご主人が何々癌でもう大変な苦しみ。それでお医者さんがその注射をして早く命を縮めるという、それは身内の方のあれが無からなければ出来んのだそうですね。だからそうしてでもこの苦しみから、早く助けたいならば、もう早く殺したが良いと言う事なんです。
だからそうして下さいこの苦しみはもう、その肉親として見ておられないと言う訳です。それでどうぞお願いしますと言う事です。けれどもお医者さんが愈々その段になられた時にです。ふっと思い出したのが合楽の事であった。私も知らんし又此処に参って来た事もないのです。この近所の教会の元ご信者さんだったと言う事だけなんです。ね。ですからそのお医者さんに頼んだ事を、ちょっと待って下さいというて待って貰った。そして合楽に泣きながら電話がかかって来た。
昨日も又泣きながら電話が掛かって来たそうです。それはねお取次ぎを頂いて、その時点から痛みが無くなったと言う事です。で私はテレビのそれを問題を聞きながらですね。例えば本人はもう死ぬか生きるかの境におるのですから、そう言う事が解る筈はありません。唯その奥さんになる人が電話を掛けて、ね。おかげで言うならば注射で命を絶つる事の無い。それは自然の言うならば、寿命を全うする事の出来る生き方をです。そこに今まで苦しんでおったのが、苦しまない様になったと言う。
ほんならこう言う事実はどう見るかと、私がそん時私がその、何のほうならね。今あの合楽で、もう日々奇跡の連続だと言われる様な中ですから。その宗教学者の人が言うておる事に対する、そのまぁ反問をするならばね、そう言う事実はどう見るかと。ね。例えば此れもやっぱり、萩の総代さんの、市川さんなんかの場合なんかは、はっきり、胃カメラの上に、その癌である事がちゃんともう、写っておるじゃないかと。それが一月後にはその癌でも何でも無い。
影も形もなくなっとったという、そう言う事実はどうするかと。癌でもない者に、お前は癌だと言われてです。もう自分は死を待つより他にないと、例えば思うたり言うたり致します。それであれは癌だ、あの例えばヒントを与えて、癌ではなちと言う事に、それで本人は気分から良くなってしまうという。そう言う風なあの見方。けれども此れはもうどうしても、あの理屈では説明の出来ない、言うならば合楽で今、おかげを頂いておる、その事実と言う物はね。
なら現代医学の例えば粋を極めた、言うならば器械を以ってして、此処に例えばはっきり癌なら癌と言う物が、映じておる。写っておると言う事。私はねまさかの折には、天地金の神というに及ばぬ、金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやるとこういう。そう言う例えばおかげで、おかげが今合楽で現れておると言う事はです。私が誰よりもまぁ、言うならばですよ。
誰よりも深い有難さというか、勿体ないというその心を以ってです、ね。金光大神助けて下さいと言っておるから、おかげを授けて下さっておる事実だと言う風に、私は思うのです。ね。だからどうして、ほんなら誰よりも深い、有難い勿体ないが頂ける様になったかというと、私自身が巡りの自覚に立っておるからです。頂いておるおかげは、皆さんと変わらなくても、私の場合は深い所から、有難いと言う物を眺めておると言う訳です。だからそれだけ誰よりも、深い有難さと言う物が在る訳です。ね。
其処んところが私は金光大神の言う事に背かぬ様に、よく守って信心せよと教えておられる。私は誰よりも金光大神の言われる事を守って、信心をしておる内に、何が解ったかというと、自分自身が解って来た。ね。一生懸命苦しい時に信心をする。おかげを頂いた。健康になった。そして、まぁ事業なら事業を始めた。おかげで事業が当たって儲け出した。その頃には自分の頂いた命ですらが、唯忘れておりませんという程度の信心しか続けられないとするならばです。
一生が修行という、言うならば一生が、ほんなら今日の福引ではないですけれども、ね。一升瓶ですから、一生とこう言う訳です。中にお酒が入っておりますから、有難き勿体なきという、まぁ一升瓶一生が有難き、勿体なきの追及だとこういう、ま、答えが出てくる訳です。ね。だから一生がです有難き勿体なきの、いうならば追求であると言う事は、ね。何か有難い事が、どんどん解って行くという意味ではなく、ね。解って行っただけでは、有難くは成れないのです。
けれども信心を進めて行けば行く程です、自分自身が愈々ギリギリ解って来るのです。ね。だから所謂無学の百姓という自覚が生まれて来るのです。何にも出来ん言うならば、私こそ神様の言うならばからご覧になったら、屑の子に違いはないという、屑の子の自覚が生まれて来るのです。その我屑の子である私がです、かくおかげを受けておるという事実がね、誰よりも深く、広く、一生、その事に取り組んで行く事なんです。だから一生自分と言う物を、本気で見極めて行くと言う事が信心だと。
それが一生が有難き、勿体なきの追求だという事です。素晴らしい事が解って有難くなると言う事。解っただけでは有難くなれません。自分自身が解って参りますと、ね。もう、有難さは只々募ってくるばかりです。そしてですその有難きという、その心におかげがあると仰せられるのですから。此れはもう言うならばもう、夢にも思わなかった世界が、そこから展開して来る訳です。
私は今朝頂いた、利きじょくですね。お酒を所謂あの利きじょくにお酒の入っとるのに上からこう、眺めておるのを頂いて、どう言う様な事だろうかと思わせて頂いたら、まぁ中には所謂蛇の目が入ってます。だからその蛇の目と言う事を巡りの目と言う風に、私は感じました中に入っておるのは、お神酒ですから有難いき恐れ多き勿体なきです。言うならば巡りの自覚。もう私の様な巡りの深い私であると言う者がです、ね。私の頂いておるおかげを見た時にです。もう限りないおかげと。
それが感じられ限りない深い、大きいおかげと感じられる。そこに大きなおかげが受けられる。まさかの折には天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神助けてくれと言えばおかげは授けてやる。そのおかげの程度の度合いもです今のほんなら現代医学では、どうにも出来ない程しの言うならばおかげというか奇跡というか、そういうおかげが頂けれる事はです。いかに深い有難いを持って金光大神と縋っておるかと言う所の、一つの目安になるものだと自分で思うております。ね。ですから愈々有難くなる為にはね。
愈々有難い事を解るというのではなくてです。愈々自分自身が分かる。愈々自分自身を言うならば掘り下げると言う事になりましょうか。ね。それはね例えば井戸に例えましてもそうですね。お水そのものは大した変わりはありませんけれども、ね。一間掘って出るいうならば井戸の水。十間も掘って出る水と水に変わりはないのですけれども、それこそ夏は氷の様な冷たい水が。冬はお湯の様に暖かいお水が出る様にです。私共の心も掘り下げれば掘り下げる程、ね。夏は冷たい、ね。冬は暖かい。
水そのものおかげその者には変わりはないのです。自分を掘り下げる所かそういう言うならば、おかげの世界と言う物が開けて来るのです。ね。成程一生掛り有難き勿体なきを追求する事が信心だと。有難き勿体なきを追求すると言う事は、金光大神の言う事背かぬ様にで、ね。守って行くと言う信心どう言う事かというと、ギリギリは無学の百姓という時点に立つ、ね。屑の子われの自覚に立つと言う事。ね。その屑のいうならば巡りの深い私であると言う事が、愈々解って行く事だと言う風に思います。
どうぞ。